黒白業

(唸り声)

おれがしたいこと

こんばんは。酒弱いなりにまあまあ飲んで、今です。ロゼワインより渋い赤ワインの方が好きになってきましたね、最近。

 

忘れそうだから、本題いきます。

自分がしたい事すなわち楽しいこととは、他人を気にせず、自分の周りの解像度を高める事なんだろうなと。何かを深めること、それは楽しい。ただし、一分野を深めていると、それは自分からどんどんと離れていく。だんだんと面白くなくなる。面白くない、それは、苦しいことをしたくないだけかもしれないね。何かを極めることはとても難しい。極めた気になることは簡単だけど、客観的に極められているという判断を下されることはとても難しい。そして自分は他人の考え方に対してとてもナーバスだ(これは生きづらさの原因であると思っているから、最近カウンセリングに行って対処しようとはしている)。実際死ぬかはさておき、あるかどうかも分からない他人の目を気にして死にたくなることが多々ある。希死はなにかの行動を諦める原因になりうるか?それは人によるだろう。自分にとってはそうだった。死んでも打ち込むということが自分には難しいという事実はとても情けなく、悲しいことではある。自分の楽しいように動くことが甘えだという感覚も、この自責に一役買っているだろうな。カウンセリング等、自分が信頼をおける人間によってこの自責を取り除くことが出来たら、俺も何かを極めることが出来るのかもしれない。

 

というか、したいこと云々は人間みんなに言えることかもしれないな。研究者とか、何かを極める人間は、自分という範囲がその分野に及んでいるんだろう。うちの専攻の教授たちは、幼い時からその分野に親しんでいたり(これは推測、でもインドのジャッカルに関する童話とかそうそう読んだことないだろ)、学んだとある分野が自分の肌に合っていた、あるいはその分野を自分の身にすることに抵抗がなかったり。自分にはそれが出来なかった。強いて言うなら美術か文学かダンスか、その辺が自分の身と呼べるものなのかもしれないけど、上を見るのが怖くて。根本的におれは何かを極めるに向いていないのかもしれないな。上に挙げた2つは自己実現、あるいは限りなく低いと認識している自己価値の創造のためのものなので、挫折した瞬間に俺の心は死ぬんだ。分かんない人には分かんないのかもしれない。挫折程度で死を望む気持ちが。分かってもらえないからとて自分の希死念慮を間違っていると考えるとか諦めるのはやめました。この希死も愛すべき俺の一部なので、他人に折られている場合では無い。死ぬときゃ死ぬ。死なないのはたとえ主観的であれ合理的でない理由があるからだ。こうして表明しないと自分の感覚に自信が持てないのも改善点だな。ふう。

人間の挫折の感覚についてもいろいろデータ集めてみたいなとふと思った。自分の認められる「真理」はデータしかないのかも。

 

脱線が止まらない。言いたいことを適切に削り、筋の通った文章を組み上げる気概が生まれない。今はとにかく自分の思ってることを喋りたいだけなんだな。

頭痛くなってきた。寝る。