黒白業

(唸り声)

救済のための論理

1月7日に一時間くらいかけてせこせこ綴ってた下書きが消えました。絶望。

ここでいじけて諦めるのは簡単だが、久々にちゃんと書かれた文であるので、流石にもったいない。頑張って記憶を辿り、書き起こしてみる。

 

ここでの救済のための論理とは、宗教なんかの教義を指す。小さいところで言えば個人間での慰めやらケアの話でも良い。誰かを慰めるだとか救うために紡がれた、論理のような屁理屈のような、そういった論のことについて喋る。論理プロの方による、「それは厳密には論理とは呼ばない」的な指摘はスルーする。面倒だし、この文章内においては、大体の人間にとっての「論理」の共通認識というかイデアみたいなものが想起されればそれでいいから。

こういう、誤用された言葉から生じた共通認識なんかについてもなんか考えられそうだな。ここでは置いておく。拾われるかはわからない。かわいそうに。

 

本題。宗教の教義はその構造の甘さゆえ、救済の権能を持つのではないか。

教義やら慰めやら、人を救わんとして組み立てられた論理というのは、割とガバいものが多い。ブッディズムとか突っ込まれるととても脆い。インド哲学、すぐ分類をするが、見境なしに分類するので簡単に定義がバッティングする。成立が古いので、現在「精緻な論理」とされるものの要件とは別の要件が当時はあったのかもしれないけど。

ガバい論理、こう呼称したがそれは結構危ういものだ。論理はガバくちゃいかんのである。先ほど論理プロがなんたらみたいなことを書いたが、パンピーにもわかるような、あまりにガバガバな論理は人に信頼感を抱かせない。そして信用感の足らんもんに救済なんぞできるわけがない。筋の通らないことを言う人間や集団に誰が救われたいと思うのか。

じゃあなぜ、吟味するとボロが出るような甘い教義が生き残っているかと言えば、大体の人間はそんなに深くまで物事の吟味をしないからだ。大体の人間は身の回りの物事に対してそんなに批判的な視線を向けていないので、一見完成されている仏教のガバさには気づかない。何でもかんでも深く吟味するような輩はごく少数です。お前らは狂っています。俺もです。仏陀知名度補正もといカリスマ(笑)も、甘さの目隠しになってるかもな。権威という後光。

 

そしてそういう甘い教義は、救済を求める人間にとって大変都合がいいものになる。解釈の幅の広さゆえ、「教義に基づいた自己の救済=正当化」の間口が大変に広くなるのだ。個人間の慰めも割とそう。咄嗟に出た甘い論理が、受取手の都合のいい解釈によって救済に変わる。厳密に考えると宗教の救済とこの慰めは構造が違ってしまうな。考え直そう。

 

あと健康は可愛さの一要因となり得るかという話。これは自分の中で決着がついたので、詳しくは書かない。書くことなかったときにでもまた書き起こすか。