黒白業

(唸り声)

解像度

指がひび割れて血が出た。今冬二回目。勘弁してくれ。バイトで地味に響いてくるんだ。くそー。

 

まあまあ病み散らかしている。気づいたらこれを書くの忘れてしまうし、長く、筋の通った文というものを書く集中力が失せている。物書き復帰の日は遠い。どんどん何が好きだったか分からなくなっていくな。

 

そんな中、今日もまたサンスクリット語を読み、世親's ガバ理論にやきもきして、風呂に漬かり、現在。借りた本を読んでいる(読んでいた)。人間Aの唱えた理論を、人間BやらCやらDやらがあの手この手で解説している本である。BCDはその文章を書くにあたり、Aの著書やらなんやらを通しその思想を理解して、BCD自身の言葉である程度噛み砕いて出力する。Aの文章を読んで、BCDの頭の中でイマジナリーAを作り喋らせるようなもんだ(と私は思っている)。

この過程、二次創作でやった事がある。そしてこの、Aのエミュレートをしていく過程は「解像度を高める」と表現されていた。解像度を高めた模倣は、頭の中でほぼ独立した人格として確立され、「これどう思う?」と聞いたなら即座に「ぽい」回答が帰ってくる。無意識エミュは自分の重視している側面が強く出がちなので、あくまで「ぽい」であり「そのもの」ではないが、ある程度の所まで行った理解が勝手に形をとって動き出すのは、まあある話だと思う。

小学校の時だったか、国語の授業かテストで画家の話を見た記憶がある。船を描くことになった画家、対象である船を隅から隅まで見て回る。一通り見た後アトリエだか作業場だかに籠り、紙を前にしたかと思えば、筆も取らずにじっと動かない。その様子を見た人が何をしているのかと問えば、紙に線が浮かんでくるのを待っているのだと、そんなことを言う。画家本人が言っていたのか師匠が言っていたのかは忘れたが、対象(船)への理解を十分深めれば、描くべき線が紙の上に浮かんで見えるらしい。画家はいつも、対象を飽きるほど観察してから紙に向き合い、浮かんできた線をなぞっているだけだとか。パンピーからすれば「はぁ?」というような方法であるが、現にその画家は見事な絵を描いている。その描画法について聞いた人間は、ははぁこりゃすげえ(薄ぼんやりした記憶からの意訳)と思う。……というような話。細部はおいとくとして描画についての記述の記憶は確か。ふっと思い出しただけの話だけども、これも解像度云々だなーと。

 

言いました通り、理解の末に勝手に動きだしたものは直観的なところが強いので、今読んでる本に寄稿なさった方々がそういう感覚で書いてるとは思っておりません。理性的な吟味を何度も繰り返した末で書き上げたことは分かっている。この文章は、ただの人間が特に何も考えず好き勝手お気持ちを書いただけである。風呂敷畳むのが面倒になってるのは良くないが、まあまあ楽しかったな。

 

それでは。